『楽しさ』 

時々、はたと目の覚める感覚がある。
業務の可能性すらあるのかわからないけれど、
『子供の』という古い友人から受けた相談が、
とても興味深い。


初めての思索では、手を動かす前にイメージの
収集をする。聞いて浮かんだ、ぼんやりした
ものを、具体にする前に行う作業。


イメージを膨らませる作業というのは、
考える領域を広げることを意味する。
自ずとスケール感を上げる作業となり、
『何を設計するのか?』その問題を深く
掘り下げることが出来る挑戦だ。




・・・夜な夜なストックしている資料を眺め、
まず、写真や絵を集めてみた。そうする内に、
段々と目指す方向が見え隠れし始めてくる。


子供のための何かしら施設、設備を考えると、
『安全性』は欠く事ができない。


そして、一般的に建築を考える上で欠かせない、
『合理性』『利便性』『効率性』、これが
不要なものとなるのではと気がついた。


久しぶりに目の覚めるパラダイムに出会えそう。


所謂「便利」や「効率的」というのは一般に、
長所とされる。しかし実は、それらは『楽しさ』
とは対となるものでもある。


※『楽しさ』の探求は難しく、定義も難しい。


住宅を設計する際、効率や便利は当然考える事、
そうすると『無駄』が削がれてゆく。しかし、
例えば吹抜のような空間は不要なものだろうか?


経済的にも利便性においても無駄なスペースが、
室内の一体感や広がりを生み出すかもしれない。
「無駄」には生活を豊かに出来る可能性がある。


外と繋がり、庭と一体的でより大きなスケールの
ある居住空間を求め、それが室内の一体感、連続性、
関係性の多様さを求めると・・・という意味から、
自分の設計では『ドマ』的空間が登場しています。


水廻りなどの作業空間は効率性を重んじつつ、
そこをコンパクトに集約し、得た余剰を無駄に
費やし、吹き抜けやドマのスペースに導くこと。
無駄は許容し、余計を削ぎ落とし「洗練」を。


要は、住まう空間は楽しい空間であって欲しい。



夜更けの書き物は支離滅裂になり勝ちだ・・・



話を戻すと、子供が楽しむものとは何だろう?
男の子と女の子では違いがあるとは思うけれど、
興奮させられる何かとは、単純であるように思う。


イメージを集める際、おぉ!と思うものばかり、
集め始めていた。触りたい、登りたい、潜りたい、
というような類は眺めてドキドキしてしまう。


我に返り、初めて知った楽しさの原点を思い出す。

20世紀を代表するコルビュジェサヴォワ邸。


初めて訪ねた時、一人静かに対峙し、理解できる
まで居続けようと、並々ならぬ覚悟であった。
のに、スケッチに描いているように、一緒したのは
近所の幼稚園児。彼等は散歩の途中でここで遊ぶ。
※子供達、自身抵抗からか少なく描いている様。


私のシリアスを一気に崩す騒々しい様が実は、
建築の本筋であったのだと、今は信じている。


かの有名な建築を訪ね、中に入ると既に園児が、
蜘蛛の子を散らしたように鬼ごっこを始めている。
この住宅は螺旋階段とスロープがあり、回遊式の
プランが重層されているので、走り甲斐がある。


この住宅は語りつくされたと思うほど、様々に
取り上げられているのだけれど、実は、それが
『楽しい』から特別だったのだと言う人がいない。
しかし、一緒した幼稚園児が証明してくれた。


お城でもなんでもなく、一般家庭の住宅であっても、
大きなスケール感を伴う、無駄を楽しむことが
出来るのでは?と。(ちょっと言い過ぎかな。)




と言う事で、数百枚の写真資料を集めてしまった。
自分の設計は、どうやって楽しさを肯定的に組み
込むのかに費やしているように思う。