トレース、その2

住宅というのは実際、見る機会は稀である。
それが古典の名作となれば・・・時に幸運に、
保存されているものに出会える事がある。
東京では『江戸東京たてもの園』も訪ねた。
そして、前川國男さんの旧自邸を見て来る。


1942年竣工、紆余あり、増改築改修を経て、
1973年に解体、再建すべく保存されていた。
これを東京都が譲り受け、ここに再建する。


図書も整理されていて、実際と図面とを見る
出来る上に再建の状態は素晴らしく、”在る”
ために注がれたエネルギーの大きさに驚き、
感謝したくなる貴重な機会であった。


切妻の大屋根のあるコンパクトな住宅。
丹精なシンメトリーで大きな開口が印象的だ。
敷地へのこだわりは強く、移設の際は元所員等
多くの方が建設時の特徴を失わぬよう悩まれたそう。
南と北の庭を大切にする景観も印象に残る。


アプローチが素敵だ。喧騒の街並みから、
どう家へ導くのかが整うという事は当然、
室内各所への展開も備わるからこそだろうか。


雪国北海道ではアプローチの長さは除雪の労を
伴うこともあり、出来るだけ道路に近付けつつ、
玄関扉一枚を頼りに喧騒の街並みと仕切る事の
ないよう心掛けて設計しているものの、こう、
澄んだ秋空の元、歩くのはやはり気持ち良い。


バフラな空間と呼ぶらしい。超広角レンズで
撮ったので広く見えるけれど、実際は適度な
大きさで密度の高い空、人集う時も息苦しさの
ない大きさが在る。


やはり、実際に空間を体験しない事には、何物も
信じて確信する事は出来ない。写真だけなら綺麗に
撮ることは出来る。しかし、感覚に嘘をつく事は
出来ない。


昨夜記したライトの、スケールが大きく
見えて実は最小寸法を使う術とは違う、
大らかさ故の抱擁感のある空間を感じる。


ハレとなる見栄えする設えのみで空間を
構成することは難しい。前の写真は当然、
反対側がある。中二階の書斎がある北側、
LDの大きなバフラな空間に対し、一段
天井の低い空間にダイニングと玄関からの
出入口スペースが納まっている。
北側のこのこじんまりとした空間は随分と
印象が異なるのではと思う。


ハレの空間に従事するようなこのスペース、
実は、ここが気持良い空間かどうかが気になる。
どこか、何かを犠牲にして見栄えを得ても、
犠牲空間に負の印象があれば拭うのは難しい。


抱擁量の大きなスペースと、身体を感じる
包まれる安心感のある小スペースのバランス。
北側なので庭の眺めも素晴らしい。


南面の庭は眩しく樹木のシルエットを眺める。
北側の庭はスポットに照らされるように陽を
浴びる生き生きとした様を眺める事が出来る。
北側のアプローチをちらほら眺めつつ、庭を
楽しむ、長居したくなる心地良いスペース。




前夜に続き、この建築もまたトレースを試みる。
自分があまり試みない空間のプロポーション
確認出来、なるほどと思いつつ。


空間には絶対はなく、常に相対があるのみ。
にじり口を潜れば3畳の茶室も広大に思えるし、
その逆に、広い空間を狭く見せてしまうことも。
相対で認識する人間の感覚は様々に作用する。
様々な取り組みがあり、それが楽しい。
より多くを見聞し、この体に覚えさせたい。
挑戦ある建築は訪ねた甲斐ある事を実感する。




適当な本を見つけたので改めて前川を読む。
読んだのは彰国社出版、中田準一著となる
「前川さん、すべて自邸でやってたんですね。」
という本。この春に出版されたものらしい。
この秋に前川自邸を見学し、訪ねた書店で
この本に出会う。まるで、この本が出るのを
待って私は建築を訪ねたかのようだ。


薄い本だけれど内容は濃く、身の引き締まる思い。
良い本に出合えたことが嬉しい。





改めて眺め、写真で気が付いた。本来なら、
その場で気付くべきを見落としていた。
切り妻がこうまで印象的に見えた理由の一つは、
その破風板にある。末広がりの形状だった。
それが力強く、佇まいを確固たる景観にしている。
合理的思考、モダニストだった前川は、ここに
このような取り組みを見せている。


3巨匠を差し置いて、生粋のモダニストはドイツの
建築家、ワルター・グロピウスだと自分は考えている。
彼のファッグス工場の建築を見れば、その明らかな
先進性の具現が今日の石杖となったに間違いがない。


その建築、鉄骨造のとある部分に、この末広がりの
破風のように、ギリシャ人が感じたであろう風を
体言するかのような人の感覚が落とし込まれていた。


これを芸術と称して良いのは問わないけれども、
合理的、効率的と呼ぶべき事柄であっても人の感覚、
感じる事を内包してこそなのだと思う。ともすれば、
退屈に成り代わるものも、前提条件を広く広げると、
途端に魅力に成り代わる。実に奥深い世界。