信号機に文句をつけてみたい。

谷崎潤一郎は『陰影礼賛』に習い蝋燭を灯してみる。
この本は、時代に遅れたおじさんのボヤキなだけなのに、
妙に心に染みてしまい、心改めて事物を眺めたくなる。


暖かい昼間も夜は涼しいよりも寒さが身に染み、
雨の日にはいっそう寒々しく感じられる季節、
と言う事でより、灯してみたくなった・・・かな?


暗いにのに揺らぐ火は、何故か心情に煌々と灯る。
思わず、じーと眺め見つめ注意し、感じてしまう光。




明日?本日は設計委託契約を控えている。
工事は請負契約、「委託」と「請負」は異なる。
請負は対価に応じる工事の責任を負う。
設計は、施主に委託され設計・監理の責を負う。
カタチ在るものの授受ではなく、判断を請け負う。
私が生きていられるのは、ここに価値があるから。
この価値を築く事は創造すること、責任は重い。




谷崎は電球の灯りを嫌い、蝋燭をと書かれた。
今の自分は電球の灯りをと書いてしまう。
実際、ここぞという場所には電球を使いたい。
今こうして書いている手元には電球が灯る。
なのだけれど、そちこちにはLEDを灯してしまっている。
LEDなんて!と書きたい気持ちはあるものの、
消費電力の小ささは消費の罪を軽減してくれそうだし。


フィラメントが燃える電球の灯は蝋燭に近い。
LEDは光源、レンズを越して到達する光は何だ?
今は随分、並べ比べなければ気付けないかも。




つい先ほど、模型を作り終えた。
明日の打ち合わせは今後の分岐となる。
質を取るか、大きさを取るか。
大きさは、かなりの猶予が有れば贅を得られる。
切り詰めると経済性、効率性、合理性が強くなり、
退屈感を拭えない。
質を求めコンパクトを突き詰める時、
むしろ余白が求められる。小さいのに更に余白を求める。
不思議な面白さ、厳しい条件こそと思うのだけれど。


LEDだから沢山灯しても罪を感じないのでは無く、
ローソクでも何とかなる設計に臨みたい、かな?
ちなみに『陰影礼賛』で谷崎は最後、信号機にも
文句をつけていた。