ロー・ポジション

正しくはないのだとは思いつつ、
youtubeで『東京物語』を見つけ観てしまう。


笠さん目線を現実に自分が理解出来そうな・・・
歳を取ったかな?
前に観た時は未だ、想像だったと思う。



ロー・ポジションというのだそうだ。
スカート中がみえそうなロー・アングルでなく、
仰がずに低く構えるカメラのポジション、
それが迫真。
ヴェンダースは映画『東京画』の中で
小津映画のカメラマンにインタヴューをしている。
そのカメラマンの撮影姿勢が、
上手く思い出せないのだけれど強烈だった。
映画の中で誰よりも苦労した人だったはず。
ただの日常をよくも適切に映し出し、
家族の姿を露にしてしまった。




物語はなかなかの悲哀を帯びて始まる。
現代の核家族の末の姿が既に描かれる。
尾道から訪ねた東京、娘紀子(原節子)の
部屋で娘の付けてくれたお酒を、
父(笠智衆)がとても嬉しそうに頂く。
娘に男っ気のないのは父母共に見て取る。
一人暮しの娘の部屋に用意などあるわけもなく、
お隣さんにお酒を借りる。
実に昭和的な感覚が新鮮。同じく
借り物の徳利と御猪口で当然の如く、
でもどこか「こんな具合?」に、
東京で一人暮らしの社会人でもあり、
適度にお付き合いはあるとしても、
父に「どうぞ」とすすめる姿、
これが美味しくないわけがないナ。
「やっぱり美味しい」と父・笠、
それは本当に美味しそであった。
だって、原節子さんにだぞ!
銀幕のスターは存在する。
何度見ても見る度に惚れてしまう。


ただ問題は、唯一の違和感が原さんだ。
背は高く、プロポーションは良く、
何より美し過ぎる。美しい?
目も鼻も口も大きく表情が豊か、
むしろ派手に見える。一人だけ
外人さんのようなのだけれど、
誰よりも清潔感を感じてしまう。
笠さんは遠くを見つめられるのに、
原は観衆を見ているかのような不思議な目。
放っておけば目立ち過ぎ、
どうすればカメラに納め切れるのか?
きっと小津もカメラマンも困ったのだろう。


ロー・ポジションは本当に凄い。
ドラマでロー・ポジションを、
と問えば何言ってんの?と断られるのだろうか。
しかも50mm?だろう広角でも望遠でもない
標準レンズで撮る、
抜き差し出来ぬ真正面から挑む映像は、
しかしそれ故に原は観衆を見、
笠は観衆越しに娘を眺めるような、
そんな視線を強調してくれる。
ついつい正座して観たくなる・・・
正座はしないけれど、そんな心境に
させられてしまう、向き合わざるを得ない迫力。
唯の日常を特別にしてしまえる?
俳優が素晴らしいからだけではないだろうに、
まるで自分がそこに居るかのような実体感。




果たして、何の予備知識も無しにこの映画に出会い、
ここまで思えたのかは分からない。
小津と聞いていたからそう思うだろうか。
そもそも笠さんは御前様だし。
でも、誰しもが感じてしまう映画なので、
今でも名が上がるのだろうな。


観終えた後に残るこの感情、
これを余韻と呼ぶのだろか?
丹田が地に着き落ち着くような、
諌められるよりも心地よさを感じてしまう。





胡坐をかいた笠の肩よりもカメラは低く、
画面の縦1/3辺りを芯に据えてやや仰角、
座る人も立つ人も納まるアングルを、
広角ではないので人と人が近く、
望遠ではないので観察的でもなく、
観る人がそこに居るかの様であり、
照明が上手いとは思わないけれど、
朴訥とした台詞のかみ合いなのか、
役者の映え力量なのか、
空は広角を使ったのかな?はあるけれど、
決め置きの固定のアングルが凄い。
何を持って決められたのだろうか?
自分なら決められるだろうか?
考えると眠れなくなる。





ヒューマンスケールは意識するものの、
ここまで寄って迫真に迫れるだろうか?
研ぎ澄ました計算を感じるわけでなく、
観る者は案外自由に目移りが許され、
室内撮影では映り切らない画角にも関わらず
情報は十分で、
黒澤程に劇的又は舞台的でなく、
本当に唯の日常に見えるのだけれど、
迫真なのに緊張感を感じさせず、
言葉の一つ一つが染み入ってしまう。
画角やカット割りでなく、
カメラ据え置き故にそうなのだろうか?


小津と聞けば敷居高く感じるのだけれど、
時々観て学ばなきゃって、
初心を呼び起こしてくれる再会をした。


紀子三部作?どちらかと言えば『晩秋』が好み。