淹れてくれる人。

自分には通うカフェがある。そしてそれは、
お店ではなく、淹れてくれる人を選ぶ。
彼此7、8年になるのだろうか。


ずっと継続して好んだのはMaさんの珈琲。
私の好みの一つの基準になっている。
数年の間はMiさんの珈琲を頂いた。
Miさんの珈琲は心から素晴らしいと、
いつも実感をさせてくれるものだった。
その間、見習いの頃から知るSaさん、
何時からかカウンターに立ち淹れ始める。
最初は基本に忠実で堅くもあったものの、
直ぐに個性のある好ましい珈琲を淹れて
くれ楽しみになっていた。
Miさん、Maさん、Saさんを順に例えると、
行書、草書、楷書、という具合で面白い。
あくまで、個人的な感想なのですが。


珈琲のプロ?ではなく、唯単に好きで
頂いているだけの自分には、自分が好きか?
と言う基準しかない。それでも、その3人の
珈琲は各々が個性的で楽しませて頂いていた。


ところが今日、それまで見かけていた
Mtくんが淹れてくれた。びっくりした。
君が淹れるのかい?本当に?大丈夫なのか?
・・・美味しかったです。ありがとう。


そこで自分は、随分と悩む事になる。
自分の感じていた淹れてくれる人の個性、
それは間違いがないと思っている。そして、
その各々が好きであり、親しんできた事もあり、
自分の嗜好の基準になっているハズなのだけれど、
Mtくんの珈琲も美味しかったのだ。
知らず内に自分の中に出来ていた体系が実は、
単なる思い込みのものに至っていたのかも
しれない。感じた美味しさが自分の嗜好の体系の
どこに位置するのか分からなくなっていた。


自分の信頼を置く人達の中に彼を入れて良いのか?
悩んでいるのかもしれない。冷静なようでいて
相当に感情的に拒絶をしているのかもしれない。
自分が何を基準にしていたのか?悩ましくなる。


元々はやはり、どこの珈琲が美味しいかな?
という所からスタートをしている。
今は家で頂く珈琲豆は特定の所に決めている。
そこはもう10年以上の付き合いになっている。
そこに出会う前はさ迷い、あちこちで購入し、
様々を試して過ごしていた。ここと決めたのは、
自分の好みに合い、美味しかったから。


でも、ひょっとすると何時しか慣れてしまい、
初心を忘れているのかもしれない。
億劫は損だと思う。本当に美味しいものを
選んでいる事にも気付けない可能性もある。
他の個性を否定しかねない程に固執して
しまっているかもしれない。
全くもう疑心暗鬼だよ、Mtくん。どうしよう?




昨晩、とある余計なお世話な事になるのだけれど、
比較検討表を作っていた。結論を得るのに、
必要なパラメーターを3つ想定、各々に3ランク、
そのランク内で+、−を設け更に3分類し、
9+9+9の合計27点で総合評価をするもの。
A+=9点、Bなら5点、C-は1点という具合。
感覚に近く、より近いものを数値差で明らかに
出来るようにとしたもの。ランク付けには根拠を
設けつつも、印象で点数は増減し補正される。
そこには好みや知識経験に元ずく采配も在るものの、
一つの目安、判断を助ける材料に成ればと考えた。


仕事では、間違う事が出来ない。
実際には間違いは起きる。そこをどうリカバリ
出来るのかこそが問われるのだけれど、それでも、
間違いのないように取り組む。


嗜好の事は、判断の出来るだけの知識や経験、
勉強が不足してもいて、そこは悩むのだけれど、
好きか否かの問題なので、感覚的も良い。
職業柄、それでも求め探してしまう。


結局の所、好きか嫌いかは案外問題ではないのだ。
どう好きなのか?何が好きなのか?どうして好き
なのか?そう問い、答えを探す事が楽しいのだ。


出来ればより大きく広く深く理解をしたいし、
数多くの情報を集め、その中から選びたいし、
可能なら、自分だけの特別を創りたいと願う。


設計を志した初めの頃には、何か一つに囚われ、
抜け出せなくなる事がしばしばあった。
それはそれで宜しく、とことん突き詰めたりする。
でも敢えて、出来るだけ色々な経験を求めるよう
努めるようにしている。良いものは何処にでも
あり、目を塞げば足元のものも見えなくなる。


例えば建築を見に行く時には意中のものもあれば、
一般的な評価のあるもの、新しいもの古いもの、
様々を選定するようにしている。
好みと良し悪しは違う。良いけれど嫌い、
悪いけれど好きも起こりえるし、どこに可能性が
あるのかは、たくさんのものを見て経験し、
学ぶ事でしか判断を得られない。


いざ設計を始める際も、固執する前には必ず、
様々な計画を試みるように努めている。
当然、プロとして基本はあるので、必要な計画を
エスキースする事が出来る。試験なら優等な
回答を得るだろうプロセスだろうか。
それは基本で絶対に欠かせないものだけれど、
そこから発展して解を編み出すには、踏み込む
必要があり、その手掛かりがどこにあるのか?
自分のスタイルに持ち込む前に、固執する前に
出来るだけ様々を知り、求める解に普遍的な
性質を加味し、より柔軟であるよう取り組む。



嗜好のものも、より柔軟に臨機に臨めるよう、
思い切って好きを探そう。知らないものが
まだまだ、あるかもしれないのだ。
つまり振り出しなのかもしれない。参ったな。
珈琲暦30年で初めて出会う衝撃があるとは!