タイルカーペット思案・・・割り付ける。

[:W650]
仕上工事も佳境、工事は終盤に差し掛かる。
様々な構造躯体、下地工事は終わりが見える。
床は、タイルカーペット仕上となっている。


タイルカーペットはこれまで何度も選んでいる。
そして何時も、選択は安価な製品だったなー
でも、色や柄は様々なので工夫の余地はある。
むしろ、どうするのかの方が実は大切だろう。


ここでは今までに経験の無い組み合わせを
試みる事とした。
既にあるインテリア、現しの構造木部との
兼ね合い、そこから派生させて組み合わせ、
・・・現物サンプルを東京から取り寄せ、
現場にて実際に置いて眺め、提案、相談する。
無事に結論に至った定例での、ある一コマ。


もしも高価な製品や素材を選べるとしても、
考えが無いと効果的ではなく下品に見える事も
在り得ると思う。選べるものの中からでも、
様々な解答は見つけられる。諦めず取り組む。


住宅スケールではなかなか考える事は出来ない。
ある規模になるとタイル類は割付も要する。
この「割付」、タイルでは必要になるのだけれど、
その寸法に合わせて構造躯体、仕上線を決める
事もあれば、後から合わせる事もある。そして、
なかなか合わない。故に何時も悩み倒す。


この建築も、もちろん製品寸法では割り切れず、
どう工夫するか?一案を思いつく。
さて、仕上がった時にどうだろうかは楽しみ。




[:W650]
今回集めた仕上カタログ一覧。サンプル等までも
含めると、実はまだまだ山の様にあるのだけれど。
直に年度替りで廃棄処分になるのだけれど、
きちんと処理しなければアトリエは直ぐにカタログ
置き場になってしまうのも悩みどころです。

ヘッダー


ヘッダーと言い、これは設備、暖房配管の要のもの。
お寺の庫裡は2階建、1階、2階ともに床暖房を
計画している。非常に手狭に計画する事となり、
よって、閉じた○○LDKという具合ではプランが
出来ない規模である事から、オープンな空間を
家具で仕切る様に設えている。


規模が許されれば○○LDKとし、各室を大きくし、
その各室を個別に暖房する形式は出来る。一般的な
住宅はそれが選択肢となるだろうと思う。
但し、仕切れば用意にプライバシーを確保できる
ものの、個々には小さな空間となり、その集合が
「家」であるなら、何か個々が切り取られる寂しさを
感じてしまう。出来れば、それが家であればもちろん、
建築空間の全体に一体感を持たせたい。


規模の難しくなった庫裡は、必要面積は確保しつつ、
個々のスペースは最小でもあり、よって、オープンに
繋げ空間のヴォリュームを確保する計画を選択した。
吹抜けや勾配屋根を活かした天井設えと、天井高さの
ある空間でもあり、一般的なパネルヒーター等では
室内高低差から寒暖差を生じかねない。
採用したのは床暖房。


遠赤という熱を波で伝える暖房設備なのだけれど、
FFストーブのような、空気を温める暖房とは
根本的に暖房の方式、考え方が異なっている。


集中暖房とかセントラルヒーターと呼ばれる
端末はパネルヒーターがメインとなるだろう。
その器具は面から放熱する熱が空気ではなく
波として熱を建築躯体へ配る事が出来る他、
その器具を濾して熱を空気に伝え対流も利用する。


対して床暖房は圧倒的に放熱面が大きい。熱は、
その面積に応じて伝える事が出来る。
パネルヒーターは集約した小面積に比較的高温の
温水を流し空間に熱を放熱しつつ、空気も温める。
床暖房は圧倒的な面積故に低温でゆるりと熱を
放出する。放出する熱は空気ではなく波となり、
床はもちろん、壁や天井を暖めてゆく。


FFストーブは空気を温める。効率的に温められた
空気が人に接し、暖を感じさせてくれるのだけれど、
空気は温められると軽くなり、上昇してしまう。
故に床面が相対的に冷えてもいて、快適に至らない。


パネルヒーターは対して熱を遠赤という波で
エネルギーを伝え、空気ではなく建築の室内の、
冷えるだろう部分を温め、室内の寒さを除く。
床暖房は空気を温める事よりも、その室内の
寒さ・・・熱を奪う部分を効果的に温める事で、
室内から寒さを取り除く事に有効な暖房と考える。


実際、暖かさの質は全く異なる。


最良は寒さのある家の中での薪ストーブかな。
あれは代え難い暖かさがある。例え背中が寒くとも、
当たる火の暖は格別だ。ただ、気密された現代の
住宅では工夫は必要、それに燃料となる薪も必要。
床暖房は放熱面の広さから、必要な熱量を低温で
付与する事が出来る。この床暖かい!と言うのとも
違う。おそらく、何が暖かいのか気が付かせない。
もしも電気代が安価なら、電熱線を天井に仕組ませ、
天井暖房も在り得る。壁を放熱面にする事も出来る。


ここでは熱源は灯油。ボイラーを設けお湯を作り、
これを室内床面に配管して流し、熱を伝播する。


吹抜けや高い天井の空間では、暖められた空気は
高所に流れ人の佇む低地には留まらない。けれど、
建物そのものが温められ、寒い箇所が取り除けると、
人は寒さを感じずに居られる、そういう暖房設備。


・・・の、要となるのが写真上のヘッダーとなる。
幾つもの回路があり、この複雑そうな機器から湯が
室内を巡る事になる。


機械設備には、非常に苦労をさせた。
断面の計画は実に切り詰め求めている事もあり、
懐のスペースは最小限で本当に苦労を強いた。


その苦労を見て現場代理人が、天井高さを下げるか?
と話した事があるらしい。「今更!」との答えだった
そうで、私がこの場で、やれば出来るね!と言えば、
機械設備職人は皆一斉に・・・笑っては居た。


お寺と庫裡、そのバランスを考えると、その余裕を
選択すれば直ぐに肥大化する方向に進む。出来る
だろうギリギリを探り、全体の、又は室内の空間の
プロポーションを研ぎ得た建築、労を求める結果と
なり申し訳なかったのだけれど、本当に良く理解を
して下さり、難しい隙間を縫って解を見出し、
その狭い隙間に効率的に納めえくれた。


定例の分科会では設備業者とは相当に悩みつつ
打合せを繰り返した成果、現場では当然の苦労を
当然の如く仕上てくれている。その成果の一端は
この写真から見て取る事が出来る。


悩んでくれた結果、仕上げで塞がれる前の状況を
眺めると、本当に綺麗に無事に出来上がっていて、
流石だと感謝しています。


写真には換気設備のダクトも写っている。これも、
散々悩んで得た解等。設計時よりも現実的で
効果的に発展出来た上に、見事に施工されている。


もちろん、経験的に出来る事を予想し設計は
しているものの、こう現実を目の当たりすれば、
次の機会もこれで・・・等と考えたりもするし、
無理を言える範囲、不可能な事の境を知る
貴重な機会と出来ている。



ライニングと言い、給水や給湯の立ち上がりのある
庫裡の居住スペースの水廻り、ユーティリティー
それも、良く整理され最小限のスペースで築かれる。


この現場の機械設備業者、その担当者は優れた方、
よくよく意図を汲み配慮し、現場に指示下さり、
そして現場の職人は良く応え、施工頂けている。


恵まれたのだと実感する光景が、監理の際の
現場でつぶさに見て実感させられる。在り難い。

墨出し

建築はある規模の際に現場事務所が設けられる。
施工者が常駐するに十分な仕事量のある規模。
一般的な住宅の建築規模ではないだろうか。


現場事務所には現場所長若しくは現場代理人
責任者として着任する。以前は現場監督と呼んだ
だろうか。何時からか、現場代理人と呼ぶ。
施工者の直接的な責任者となるのだけれど、
仕事は・・・「安全」「工程」「コスト」の管理。
コストについては見積もり含め、現場で行わない
ケースも今はある様子。


余談になるけれど、現場にコスト管理を任せると、
中には悪い事をする人も出てくるのだとか。
確かに昔の話を聞くと、豪遊された方も少なくない。
ただ、私利に囚われる人は信頼を薄くしてしまう。
安全は絶対、工程管理は契約上やはり絶対の事。
コストつまりお金を采配出来る現場監督は、正に
現場を仕切るに相応しい責任を負い信頼を要する。


自分の世代ではそういう方にお目に掛かるのは稀。
ただ、若い時はそういう方にとてもお世話になった。
何というか、「親分」と呼ぶべき人と言えるだろう。
私が親しくさせて頂いた方は、松形弘樹に似ていた。
最初は怖くて仕方なく、指摘は何時も的確でシビア。
設計への要求レベルは高く、いつも緊張を強いられた。
でも、その御蔭で現場の仕組がとても良く理解出来た。
実際、現場の事は本当に何でも知っていて、不足の
ある場合は自身で施工図を描けるのは当然、品質への
要求は高く自信に満ちていた。どんな難題にでも
応えてくれるだろう信頼を置ける人だった。


という方、木造なら棟梁となるだろうか。
これまで幾人か、そういう方と出会ってもして、
そういう仕事は楽しくて仕方が無かった。


話を戻す。


現場での代理人は、とても忙しい。
ある一定規模の建築となれば、それは役所工事か、
ディベロッパー、民間工事の際も手馴れた担当者が
「施主」として登場する事になるだろう。各種役所
への届出含め、打ち合わせは頻繁、書類整理含め、
多忙となる。目が回る程多くの人と接する業務だ。


多くの場合、次席と言い、実際に現場に出て管理を
行う者が付く。その次席も忙しく、雑用を担うだろう
「手間」となる若手がその下に付く。


ゼネコンの仕切る現場はそういうヒエラルキーが在り、
代理人はそこに至るまでに全てを経験し学ぶ事になる。


今のお寺の現場には次席はなく、現場代理人が多くを
処理されていて、いつも忙しそうだ。定例はどうにも
これまで終日でもあり、その間に幾人も業者や職人が
来てはあれこれと打ち合わせをされている。
この現場には手間を担う若手が居て、彼等の仕事は
見ていて実に面白い。


現場の環境を整える事、これは特に大切な仕事だ。
聞けば仮設トイレのトイレットペーパーを用意する事も
仕事の一つ。トイレが使えなければ現場が滞ってしまう。
まさか、現場代理人がトイレットペーパーに奔走されては
現場打ち合わせもままならない。


手間は現場勉強期間の若手とも言えるのだろう。
設計者である私が直接知る事はないけれども、どんな
仕事があるのかを彼等を見て知る。本当に地道。
現場の掃除は当然、それが行き届けば仕事環境は綺麗だ。
不足や不明を解き、適切に現場が動き、職人が仕事の
出来る環境を提供できるかどうか、問われる。
実際、出来る現場は非常に綺麗で滞りがない。
これは一目瞭然。影の仕事が適切であればこそ。
そういう地道な仕事を経験し覚えなければ、上に立って
管理する事が出来ないだろう事は明らかだと思える。




そんな手間となる若手がある日、墨出しをしていた。
墨出し・・・これは実は最も難解で最も大切な仕事だ。
大きくそもそもは、敷地を特定し、どこに建築するか、
その位置出しも同じ事だ。
設計では敷地も建築位置も明快に描けるものの、
現場では何を基準にするか、境界石が信頼できるのか、
設計図と敷地が合致しているのかに始まり、誤差が
あればより安全側を計り考えなければならない。


写真は、これから仕上げ工事という段階でのある部分。
家具の設置位置について、手間となる若手が出した墨。
この線に沿って家具が配置される事になる。


「大丈夫?」と聞けば「大丈夫です!」と帰ってくる。


測量はレーザーを使っても、実際に描く線は今も墨壺。
墨壺に浸った糸を伸ばし、弾き打ち、描く。
真っ直ぐに描かれている。図面で描く線を現実の世に、
記す行為には特別な思いがある。その線は仕上がれば
消えてしまうけれど、設計の意図を現場に反映させる
絶対の基準となる。


・・・「大丈夫です!」と帰ってくれば、信じるしか
ないものの、不安も隠せない、かな?
曲がっていたら、大笑いしてやり直しを指示するだけ。
建築の現場は、そういう後に消えて隠れてしまう様な
しかし基準となる重要な仕事を重ねてこそ得られる。


私の設計監理する現場でも、これが日常にある。
描いた線が今そこにあり、消える事で意図を達成出来る。
多くの人が直向に工事に携わる事に感謝したい。

新しいプロジェクトに参加かな?

これは助人登場にはなるのだけれど、
声を掛けてくれたのは、とある友人。
彼は設計事務所の所長で・・・実は、
飲んだ席でしか知らない。でももう、
そこそこ古い付き合いになる。
彼の事務所には同窓の後輩も居て、
飲めば酔う実に微笑ましい後輩。




選んで私に声を掛けると言う事は、
そういう事なのだと理解をしている。
参加出来るのなら労は惜しまないし、
仕事では油断はしないと思われ不足なく、
良いチームが得られそうに思われる事、
これがとても嬉しく楽しみに感じている。


誰かと一緒に設計に取り組む事は久しい。
即興のセッションの如く、になるだろうか。
相手に不足はない。後は自分がどれだけ
出来るのかが試される。


敷地を知ったので、うずく。
敷地に立ち見る前に手を動かすと、
先入観に囚われる傾向は否めない。
だから今は、動かずに耐える。


敷地はメジャーなスキーのメッカらしく、
現地調査の際は・・・どうにか所長を煙に巻き、
後輩とゴンドラには乗ろう。
事後報告のそれは・・・後輩に任せよう。

淹れてくれる人。

自分には通うカフェがある。そしてそれは、
お店ではなく、淹れてくれる人を選ぶ。
彼此7、8年になるのだろうか。


ずっと継続して好んだのはMaさんの珈琲。
私の好みの一つの基準になっている。
数年の間はMiさんの珈琲を頂いた。
Miさんの珈琲は心から素晴らしいと、
いつも実感をさせてくれるものだった。
その間、見習いの頃から知るSaさん、
何時からかカウンターに立ち淹れ始める。
最初は基本に忠実で堅くもあったものの、
直ぐに個性のある好ましい珈琲を淹れて
くれ楽しみになっていた。
Miさん、Maさん、Saさんを順に例えると、
行書、草書、楷書、という具合で面白い。
あくまで、個人的な感想なのですが。


珈琲のプロ?ではなく、唯単に好きで
頂いているだけの自分には、自分が好きか?
と言う基準しかない。それでも、その3人の
珈琲は各々が個性的で楽しませて頂いていた。


ところが今日、それまで見かけていた
Mtくんが淹れてくれた。びっくりした。
君が淹れるのかい?本当に?大丈夫なのか?
・・・美味しかったです。ありがとう。


そこで自分は、随分と悩む事になる。
自分の感じていた淹れてくれる人の個性、
それは間違いがないと思っている。そして、
その各々が好きであり、親しんできた事もあり、
自分の嗜好の基準になっているハズなのだけれど、
Mtくんの珈琲も美味しかったのだ。
知らず内に自分の中に出来ていた体系が実は、
単なる思い込みのものに至っていたのかも
しれない。感じた美味しさが自分の嗜好の体系の
どこに位置するのか分からなくなっていた。


自分の信頼を置く人達の中に彼を入れて良いのか?
悩んでいるのかもしれない。冷静なようでいて
相当に感情的に拒絶をしているのかもしれない。
自分が何を基準にしていたのか?悩ましくなる。


元々はやはり、どこの珈琲が美味しいかな?
という所からスタートをしている。
今は家で頂く珈琲豆は特定の所に決めている。
そこはもう10年以上の付き合いになっている。
そこに出会う前はさ迷い、あちこちで購入し、
様々を試して過ごしていた。ここと決めたのは、
自分の好みに合い、美味しかったから。


でも、ひょっとすると何時しか慣れてしまい、
初心を忘れているのかもしれない。
億劫は損だと思う。本当に美味しいものを
選んでいる事にも気付けない可能性もある。
他の個性を否定しかねない程に固執して
しまっているかもしれない。
全くもう疑心暗鬼だよ、Mtくん。どうしよう?




昨晩、とある余計なお世話な事になるのだけれど、
比較検討表を作っていた。結論を得るのに、
必要なパラメーターを3つ想定、各々に3ランク、
そのランク内で+、−を設け更に3分類し、
9+9+9の合計27点で総合評価をするもの。
A+=9点、Bなら5点、C-は1点という具合。
感覚に近く、より近いものを数値差で明らかに
出来るようにとしたもの。ランク付けには根拠を
設けつつも、印象で点数は増減し補正される。
そこには好みや知識経験に元ずく采配も在るものの、
一つの目安、判断を助ける材料に成ればと考えた。


仕事では、間違う事が出来ない。
実際には間違いは起きる。そこをどうリカバリ
出来るのかこそが問われるのだけれど、それでも、
間違いのないように取り組む。


嗜好の事は、判断の出来るだけの知識や経験、
勉強が不足してもいて、そこは悩むのだけれど、
好きか否かの問題なので、感覚的も良い。
職業柄、それでも求め探してしまう。


結局の所、好きか嫌いかは案外問題ではないのだ。
どう好きなのか?何が好きなのか?どうして好き
なのか?そう問い、答えを探す事が楽しいのだ。


出来ればより大きく広く深く理解をしたいし、
数多くの情報を集め、その中から選びたいし、
可能なら、自分だけの特別を創りたいと願う。


設計を志した初めの頃には、何か一つに囚われ、
抜け出せなくなる事がしばしばあった。
それはそれで宜しく、とことん突き詰めたりする。
でも敢えて、出来るだけ色々な経験を求めるよう
努めるようにしている。良いものは何処にでも
あり、目を塞げば足元のものも見えなくなる。


例えば建築を見に行く時には意中のものもあれば、
一般的な評価のあるもの、新しいもの古いもの、
様々を選定するようにしている。
好みと良し悪しは違う。良いけれど嫌い、
悪いけれど好きも起こりえるし、どこに可能性が
あるのかは、たくさんのものを見て経験し、
学ぶ事でしか判断を得られない。


いざ設計を始める際も、固執する前には必ず、
様々な計画を試みるように努めている。
当然、プロとして基本はあるので、必要な計画を
エスキースする事が出来る。試験なら優等な
回答を得るだろうプロセスだろうか。
それは基本で絶対に欠かせないものだけれど、
そこから発展して解を編み出すには、踏み込む
必要があり、その手掛かりがどこにあるのか?
自分のスタイルに持ち込む前に、固執する前に
出来るだけ様々を知り、求める解に普遍的な
性質を加味し、より柔軟であるよう取り組む。



嗜好のものも、より柔軟に臨機に臨めるよう、
思い切って好きを探そう。知らないものが
まだまだ、あるかもしれないのだ。
つまり振り出しなのかもしれない。参ったな。
珈琲暦30年で初めて出会う衝撃があるとは!

アプローチ

音更で取り組むお寺の建築はいよいよ終盤、
先日は外部足場が取り払われつつあった。
初めてその外観を街並みに見せた建築は、
まだ表情は硬く馴染んではいない様に見えた。
実際、仮囲いは在り地盤は作られていない。
それでも竣工後の姿を思わすには十分であり、
定例打ち合わせの為に訪ねた現場にて、
現場事務所より先に走り敷地に接する交差点へ。
あれこれ眺めて過ごした。
非常に鋭い鋭角な顔が街並みに顔を出していた。
周囲には申し訳ないけれど、仮囲いが取れれば
尚の事、街並みを使わせて頂き、何事かを
些細でさり気無く確実な変化を生み出すハズだ。
音更川に沿い折れ曲がる国道沿いに在る敷地、
殆ど多くの人は真っ直ぐ伸びる国道と認識を
しているだろうけれど、実際には微妙な角度の
道があり、敷地は変形をしている。
素直にこれを利用して使い、得た建築に成る。


既に様々多くの部分で仕上げ工事も始まり、
これまで果たしてきた判断の結果を示し始め、
緊張は果てしない。にも関わらず、建築の
全てをつぶさに見て回るには時間は足らず、
ともかく気が付いた点については問い伝え、
更に課題を検討しつつ・・・けれども、
目の前に広がるシーンには感じ入ってしまい、
足が止まり、目は釘付けとなり、佇む。


正直を告白すれば、ローコストと言うよりも、
安価な建築に他ならない。もちろん総コストは
一代規模の事業に変わりないものの、これまで
取り組んだ住宅の単価に及んでいない。
無理も無茶も無駄も許されない状況にあり、
それでも、出来る事は確実に取り組まなければ
ならない。『空間』、これはコストに拠らない。
そして『光』、これも全くコストに関わらない。
正しく取り組むなら、建築は絶対に可能だ。
これは疑えずに、本当にそうなのだろうか、
具現が出来ているのかどうか、確かめつつ。


常に定例での問いは決定案に至る事だろうか。
予算の範囲内で可能な事を探りつつ、無理を
要求したり、出来る範囲を諭されたりしつつ、
結果は上限に至れるように取り組んでいる。


6月に着工し、時期に半年が経過する。
計画をスタートしてからは2年が過ぎる。
紆余はあり、至る部分も至らぬ部分もある。
それでも驚くには、基本の計画は周到をし、
求めた空間の具現を求め工事が進む事。
本当に自分が考えた事なのかとすら思う。
敷地、元々のお寺の佇まい、様々な要望、
それを元に組み上げた私の思考と思い。
挑戦はまだまだ続く。諦めずに手を抜かず、
最後までと、定例で現場を見回す時は何時も、
初心を思い出す。


この現場は、見積もり時からある方の
お世話になっている。
今時分、ゼネコン施工では傾向がある。
営業と積算、現場担当とは異なる事が常。
住宅規模では違うものの、ある程度の
規模の建築ではそれが一般的かもしれない。
営業が積算を飛ばして契約した見積もりが、
現場レベルでは困難でしかなく、と言う事も
少なくはなく、苦笑いの現場代理人も知る。


幸運にも今取り組むこの現場は、積算から
施工管理までもが一人の方に負っている。


]
学生時代はバスケットボールをされていた
と聞いた。体格は良く大きい人です。
怒られたら怖そうだけれど、でも何時も、
どの様な事態でも笑顔で対応、迎えて下さる。


写真はお寺のアプローチを玄関から望む。
大きな彼の背中がより大きく見える。
でも、手前の通路巾は2.4mを超える。
ゆとりは保ちつつも無駄に建築を大きくせず、
主役たる訪ね来られる人を疎外しないスケール、
映える光は綺麗で、照明時も計画がある。
逆を向けばエントランス正面があり、
ここも表札を含め整えている。
まだ未完ではあるけれども、闊歩する
現場代理人の背中の大きさは印象的であった。





もう直、私にも少し余裕が出てくるはず、
この建築に携わり経た経過を報告としつつ、
建築の物語として記す記事を書こうと思う。

ロン・カーター

水曜の音更での定例、帰宅はいつも夜が遅い。
いい加減、車では帰って来れる気がしないし、
泊れば2日を消費してしまう事もあり、今は
JRの利便性に慣れてしまう。大変に楽です。


朝10時スタートの定例は分科会含め終えるのは
夜の7時前後、最終で帰ると札幌駅は午後11時。
やっと帰ってきたと一服したいものの、
無駄を惜しみ家路を急ぐ人の波の中に置かれ、
緊張を解す間もなく私も家路を急ぐのが常・・・
がしかし、先日は5時に定例を終え、札幌駅着が
午後8時過ぎ。すると、これから何処かへという
人もあり、無駄の許される時間帯でもあって、
その空気に誘われてつい、足は街中へと向く。
結局はススキノまで到達、帰宅は深夜であった。
本末転倒だったのだけれど、これは仕方が無い。


最後は同窓の先輩のJAZZバーに辿り着く。
序に、ロン・カーターの講義をして頂く。
聞いたのは3枚のレコードであった。


マイルスの一枚は、何か大きなホールの一端で
トランペットが、もう一端ではピアノが等々、
思い思いに音を出しているかのような状態で、
調和しているのだかしていないのだか、しかし
それが非常にスリリングで一つのミスも許さ
ない様な、高い緊張を失わない不思議なもの。
これを律し音楽に仕立て上げていたのがロン。


彼は、ボロンボロンと密かに低い音を発して
私にでもリズムを取らせてくれていた。
ベースは弦を弾き音の像が結ぶまでに時間を
要する楽器、誰よりも早くに弾く。つまり、
彼がこのデタラメのような状態に秩序を
齎せていた張本人であった・・・のかもしれない。


かと思えば、渡辺貞夫との一枚はノリノリの、
楽しさ溢れる一枚であったり、ギターとの
デュオもあった。変幻は自在、素晴らしい。
その場の空気を音楽という調和へと導き、
仕立て上げてしまう。


つい、建築を考える自分が在るのだけれど、
個々に最良でも調和を失えば音楽にならない。
お金を掛けても良い建築には成らないのに似る。
逆に、どのような状態でも音楽に出来る能力、
私のような音楽の造詣の無い人にもリズムを、
グルーブを感じさせられる技量があるなら、
どのような状態でも纏め上げられるのかも
しれないと思ってみたりしつつ。


この奏者、元々はチェロ奏者でクラシックの
出身らしい。技量も表現力も理解も深い奏者。


宿題を抱えている私は、これを発見して・・・
その気になってスケッチを試みたのだけれど、
酔った勢いのものは大抵、翌日に眺めると、
何だろう?というものではある。
気付けばモンドリアンか、ドゥースブルフ
でも成った気持ちだったのだろうな。さぞ、
気持ちよくスケッチしていたに違いない。


次の定例に持ち込むには、修練の時間は
残されていない。エッセンスだけでも
取り込めるなら、気持ちよく絵が描ける?
もしも私が気持ち良く描いてしまえば、
現場代理人は嫌な顔をするんだろうけれど。
いつも何事にも動じずに元気に笑顔で
迎えてくれる彼の笑顔を失わないように
取り組まなくては。