大きさを確かめる。


佛願寺の納骨堂、これは適切な大きさ、スケール感に
設えることができたと思う。


55坪の広がりある空間、その奥行きは27mを越える。
これを一直線に結ぶ主たる動線は、一切の無駄を
省いたプランの要、これをそのままハレの間としている。


この空間に入ると、27m以上に向こうに在る、
阿弥陀様が迎えてくれる。そこまで一歩一歩、
歩み寄ることが出来る。子供は走るけれど。


この空間を生かすかどうか?それは空間の大きさに拠る。
間延びしては退屈であり、窮屈過ぎては伸びやかさを失う。
故に、細心の注意を払い、設計に取組む。


このような大きさに対する解はなく、誰も教えてはくれない。
数百の建築作品を見てきた自分も、類似する空間を知らない。
予算、敷地の条件から導いた必然にして最小の猶予から
生み出された空間は、挑戦以外の何ものでもなかった。





これは何時だかも載せた、1/30スケールの検討模型だ。
模型からその空間の大きさを計ることが出来る。
もちろん、実際と模型の差異を埋める経験は欠かせない。





人を置いてみる。前2つの写真とは異なり、空間の
大きさが見えてくる。これをヒントに想像を巡らせる。


設計に際し、この時は怖さの方が先立つかもしれない。
怖さに負けると緩くしてしまうだろうか。大きければ
退屈でも不便は免れるだろう。どこまで詰められるか、
設計の、最も確信となる本来の部分ではないかと思う。


「いいスケール感だね」といえる人は少なくない。
しかし、それを語れる人は稀なのは間違いない。
設計者は、これを創る人でなければ不足だろう。


詰めの甘さは必ず空間に現れる。誰も気が付かなくとも
自分はそのことから免れることは出来ない。


ここは今も行けば必ず訪ね、楽しんでくることが
許される、自分にとっても心地良い空間。


引渡しの際、総代集が住職の元、始めて経を唱えた時は、
嬉しかった。


あくる日から始まる納骨段のお引越しの様、
影から観察させて頂いたのだけれど、
実に良い風景に思われた。


最初の写真、それはまだ使われる前のもの。
まだ、設計者の側に建築がある時のもの。


引渡し、使われる瞬間から自分の手元から離れる。
その後は、自分には何もすることが出来ない。
ここを訪れた人が、ここで何を経験されて行くのか。


お寺で肝試しをするのなら、最後は納骨堂だろうか。
でも、ここの納骨堂はそれには適さないだろうな。
あえて言えば、それは間違いだったのかもしれない。


昼も夜も、光に包まれる阿弥陀様に見守られる
優しい空間に至れたのだから。
自画自賛になってしまった。


「いいスケール感だね」と発する人はいるけれど、
それがどういうことかを語れる人は稀だろう。


感じるものなのでそういう性格のものなのだけれど、
設計者は逃げずに創らなければならない。


その恐怖を知る自分にとっては間違いなく
肝を試す場として、この先も在り続けるのだ。


問われるのは大きさのみならず、何を持って適当と
判断したのか、コンセプトそのものなのだから。