光、大きさ、質感・・・その3

光や大きさ(スケール感)、質感(テクスチャー)、
肝心な事にこれらは写真には写らない。
また、読んで理解できることでもない。
自分の目で見て、体で感じる意外の術がない。
古今東西、建築(空間)は、実際に見に行き、
リアルな経験を得ずして学べない。


では訪ねると分るのか?実はこれも悩ましい。
先入観、誰かの言葉や批評に惑わされる事が
あるかもしれない。素直に感じることは実に難しい。


建築を志す前から、空間にはとても興味があった。
志してからは好んで建築を訪ね歩く。自分にとって、
大学を卒業した後の半年、欧州を歩いた事は、今も
設計での礎になっている。様々な可能性を、実感を
伴い得られた貴重な体験だった。


見た目を真似ることは出来る。けれど、光や大きさは
再現性がないので真似ることは極めて困難だ。
オリジナルを求めるに等しい発想が必要になる。
それが中途半端なら、酷く見っとも無い事にしか
ならないだろう。


欧州建築探訪時のスケッチを幾つか載せてみる。
写真も撮るのだけれど、訪ねる時は先ず感じる。
感じ得た発見を、スケッチには描き込んでいる。
スケッチは今も、その場の臨場感を伝えてくれる。


自分のスケッチはペンで描く。ぼかしては描け
ないので、全て線で表現する。よく光を観察し、
どの方向からどの強さ、長さが在るのかを描く。




特に光に感激したのは北欧の建築だった。
十分な陽のある南方の建築は室内の明るさには
あまり執着はしないように思う。室内環境は
どこにあっても求めるものではあるけれど、
光への取り組みは、そもそも陽が低く少ない
地域ほど、進んでいるのではと思う。
そこには様々な工夫があった。何だろう?と
気付き、何度か訪ね眺めて、確かめる。




このセイナヨキにある図書館には感動をした。
大きな高窓は外部にルーバーが備え、天空光を
先ずこのルーバーで反射させて下方から室内に
取り入れる。その光は湾曲した天井面に映え、
二度目の屈折を経て十分に砕かれた光が、室内に
満たす仕組み。手に届く時は既に方向性を失った
質良い光は陰影を室内作らず、落ち着いた心地が
あり、本と向き合うに適したものに思えた。


建築はまるで、光源と天空光とする照明器具のよう。
陽は低く曇り勝ちな外部、外よりも室内の方が
明るく感じられるほどだったと記憶している。



セイナヨキの教会。巨大な空間なのに、照明なしで
明るい。先の図書館とは違い、満遍なく明るい
のではなく、明暗が表現されている。教会である
性格上、求心性、正面性も備える。屈折する光の
特性を良く理解しなければ、絶対に出来ない、
この光の表現が素晴らしい。



ラハティにあるこの教会も素敵な建築だった。
偶然、パイプオルガンを練習する牧師さんと一緒。
彼が、自分は練習しているので、そこに居ても
良いよ、という感じだっただろうか。


ここもやはり、基本は隈なく明るい。大きな空間
にも関わらず、隅に暗がりなく陰湿感がない。
健やかさがそこに在る。にも関わらず空間には
求心性があり、これを巧みに光で作られている。
ここを訪ねれば誰しもが申請な心持に至るに違いない。



これはイマトラにある教会、これもまた素晴らしい。
ガラス張りの建築なら明るいのかと言えばそうでもない。
全てがガラスなら温室状態、暑さを否めないだろうし、
明に対して屋根の落とす影が意外と存在感がある。


この建物も、窓が大きくたくさんあるわけではない。
けれど室内は、外よりも明るく感じられるほど十分。
当然室内のどの隅も隈はなく健やかに感じられる。


この建築の秘密は外部サッシのガラスと内部に設けた
もう一枚のガラスを濾す光にある。光は十分に砕かれ、
室内に均質に隅々まで満たされている。



時代が変わり、私が学生だった頃に出来た建築。
ミュールマキにあるこの教会は、これまでに
出会った建築の中で元も明るい建築だった。


どこに居ても隈のない明るさ、それでいて教壇の
ある場所に集まる光の具合、その重なり、奥深さ。
巧みだけれど特殊ではない、当たり前のことを
建築にしているだけ、それが至極の空間だった。





こんな建築を知ると、室内の暗さについて、方位や
窓の大きさをいい訳には使えなくなってしまう。


建築、空間とは実に奥深い。実感を伴い知った光を、
これまでの設計で実践している。知った光、しかし
何の保証もないので、模型を使い、近似する空間を
使い様々を試し、想像を創造できるまで求める。


取り組む建築が、どんな光だと適切だろうか?
思案し、必要な光を得るにはどうすれば得られるか、
悩んでは試し、成果を求めて取り組むのみ。
諦めずに望めば、必ず最も相応しい光が見つかる!
日々、様々に応える準備は怠りたくはない。